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清水屋敷跡

                           山口県:浦上キリシタン関連史跡

改心者たちが暮らしていた


長崎から萩に流された浦上キリシタンの改心者たちが暮らしていた屋敷があった場所。

明治元(1868)年キリシタンの中でリーダー格と考えられていた114名の信徒は萩、津和野、福山に流配されることが決まり、長崎県の港から船で下関に運ばれました。

萩に配流が決まった66名は、下関で上陸し、徒歩で萩城下に入りました。キリスト教が民に広まることを恐れた藩では、再び彼らを船に乗せ、萩の沖にある大島のバラックに収容しました。

左手が清水屋敷があった場所


その後信徒らは民家がほとんどない羽島に移されましたが、多くの者が改心(棄教)の申し出をしたので、不改心者は22名となりました。

改心しなかった5名の者を羽島に残し、それ以外の者が移されたのが、清水屋敷です。現在は農地となっています。

清水家は高松城の水攻めの時自決した城主清水宗治の末裔で、代々萩藩の重臣を務めてきた家でしたが、この時は空き家となっていました。

清水屋敷跡


不改心者のうちの指導者は、城の越の伝道師元助(50才くらい)と甚平(24,5才)でしたが、厳しい拷問に耐えかねて棄教してはいけないと、2人は屋敷から逃亡しました。

残された信徒たちは精神的な支柱を失って、皆改心証文に捺印を押しました。

改心すれば故郷に帰してやると言っていた役人たちの言葉は守られず、結局帰郷できたのは明治6(1873)年。隣の岩国屋敷の人々と同時でした。

清水親知旧宅地


隣の岩国屋敷では、家族が拷問に耐え信仰を守っているのに、改心した身では励ますこともできず、心の中で祈るしかなかったのではないでしょうか。

一方逃亡した2人は途中でアルバイトをして交通費を工面して、神戸の教会に潜伏し、後に大阪の川口天主堂に送られて、元助は門番を、甚平は雑役をしました。

清水屋敷にいた父兄らの中には役人たちに入れ知恵をして、信徒を苦しめる方法を教えたり、棄教を勧めるたりする者もいました。道一本をはさんだこの2つの屋敷跡は、艱難の時にこそ隠れたものが明らかになるという教訓を、今も私たちに教えてくれています。


清水旧宅跡

清水旧宅跡の碑

碑の説明板

左手奥に屋敷跡


 現地への行き方
萩バスセンターから循環バス「晋作くん」に乗って、「ミドリヤファーム入口」下車、徒歩3分。
萩キリシタン殉教者記念公園に向かう道の途中右手に、清水親知旧宅跡の碑と説明板があります。



この地図は大体の位置を示すものです。訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

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