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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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萩キリシタン殉教者記念公園

                           山口県:浦上キリシタン関連史跡、記念碑

萩で殉教したキリシタンたち


長崎から流配されてきた浦上キリシタンが囚われていた屋敷の裏地を買い取って、信仰のゆえに迫害され亡くなった信徒たちを弔い、命をもって主を証したことを記念した公園。
熊谷元直を始めとする江戸期に萩で殉教したキリシタンたちの碑も建てられています。

萩キリシタン殉教者記念公園


鎖国が解かれるや否や来日し、禁制下で隠れて信仰を守り続けたキリシタンがいたことを「発見」したパリ宣教会。

日本は開国し、明治政府が立てられたにも関わらず、徳川期から続くキリスト教禁令を解いていませんでした。

そのため長崎で「発見」された信徒たち(多くが浦上村の者たちだった)は、処罰の対象とされ、見ず知らずの土地に流されて、そこで棄教するようにとの説諭と拷問を受けることとなりました。

浦上キリシタンの墓と記念碑


明治政府の要職につき、信徒問題の方針を定めた井上馨、木戸孝允、伊藤博文らを輩出した長州藩には、他藩より多くの信徒たちが預けられることとなりました。

明治元(1868)年に第一陣として萩に送られてきた66名の信徒は、棄教しないまま死亡した1名と逃亡した2名を除き全員改心(棄教)し、当時空き家となっていた清水屋敷に収容されました。

殉教者記念公園


しかし翌年その家族として送られてきた134名は、女子供と老人ばかりであったにも関わらず、餓死寸前の飢え、劣悪な衛生状態、寒空に裸で放置される寒晒し、鉄砲責めなどの拷問、殴る蹴るの暴力に耐え、ほとんどの者が改心しませんでした。

彼らが収容されたのが、岩国屋敷という場所でした。広い敷地内に建物はありましたが、馬小屋に住まわされたり、光も差さない勘弁小屋に入れ、20~30日もの間食物を全く与えないということが、日常的に行われていました。

浦上キリシタンの碑


明治4(1871)年諸外国からの非難を受け、楠本正隆が実態を調査するため岩国屋敷を訪問しました。巡察後他の地域では待遇が良くなったのに、ここではより悪くなったと証言されています。

明治5(1872)年帰村が許されると、改心していた者たち26名が早速改心を取り消し、翌年に長崎に帰るまで草鞋を作るなどの内職をしました。

明治6(1873)年、ようやく長崎に向けて出発できるようになりましたが、それまでに43名の命が失われていました。

近辺から集められたキリシタン墓


彼らの忍耐と信仰を記憶の風化に任せてはいけないと考えたパリ宣教会のビリヨン神父は、明治24(1891)年岩国屋敷の裏手にあたるこの土地を買い求め、碑を建てました。

浦上キリシタンの碑の土台には、信徒たちが寒晒しにされた庭の石が積み上げられています。

きれいに管理され、季節の花が彩りを添える公園には、江戸期に殉教した熊谷元直と天野元信の碑、この近辺から集められたキリシタン墓があり、静かな祈りのひと時をもつことができます。


殉教者について

熊谷元直の碑

熊谷元直について

天野元信の碑

浦上キリシタンの碑

一人一人の名が

刻まれた

浦上キリシタンの墓碑

キリシタン墓

キリシタン墓

祠のような形

キリシタン墓の内部

岩国屋敷跡


実際に岩国屋敷があったのは、公園の北側です。萩城跡から行った場合、この案内標識に出会うのですが、この標識の後ろの辺りの土地がそうだったと考えられます。

現在は農地と住宅になっており、お住まいになっている方々に配慮して、写真は撮りませんでした。

人が亡くなった地ですが、殉教地なので、まがまがしいものではありません。彼らの純粋な信仰が一般にも通じるようになったら、是非岩国屋敷跡として案内板を立てていただきたいです。



 現地への行き方
萩バスセンターから循環バス「晋作くん」に乗って、「ミドリヤファーム入口」下車、徒歩5分。
幹線道路沿いの案内標識にしたがって、ミドリヤファームの横手の道を進むと右手に見えてきます。
萩城跡から歩いて行くこともできますが、その場合は上記(岩国屋敷跡の写真)の標識が現れたら、直進してその先で右折すると150m先右手に現れます。



この地図は大体の位置を示すものです。訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

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