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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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萩城跡

                             山口県キリシタン関連史跡

熊谷元直らが通った城


慶長9(1604)年毛利輝元が築き、居城とした城。

輝元はこの城の石垣にまつわる砂利窃盗事件(五郎太石事件)の責任を取らせる形で、重臣の熊谷元直らを処刑しました。

萩城跡


萩屈指の観光スポットして人気を集める萩城は、関ヶ原の合戦で負け、隠居を余儀なくされた毛利輝元が、幕府の許しを得て建てた城。

現在は石垣とわずかな遺構だけが残る城跡となっています。この城を舞台とした五郎太石事件は、以下のような経緯で起こりました。

萩城の主要な部分が完成した1604年、熊谷元直と益田元祥が、残りの工事の最高監督者となり、東門の諸工事と海側の石垣の築造の監督者として、井原玄以と熊谷の娘婿天野元信が任命されました。

萩城跡の石垣


築城工事は順調に進んでいましたが、翌年の3月天野方の人々が3人の盗人を捕らえました。彼らは天野の受持ち区域に置いてあった砂利(五郎太石)を盗んだのでした。

盗人たちは益田方の人夫で、自白したところによると本日およそ70人、昨日は同様にして20人が盗みに加わったという大規模な窃盗で、盗まれた砂利は2千荷にも達していました。

天守跡からの眺め


当然のことながら天野は益田方に弁償を要求しましたが、益田方は減額を申し出るばかりでこれに応じず、ついには3人を死罪にするのでそれで終わりにしてほしいと言ってきました。

天野には石垣築造の責任があるので、そのような案をのむわけにいかず、仲裁役を熊谷に頼みました。

熊谷は益田方と話し合いを持ちましたが折り合いがつかず、益田方が訴訟を起こしたので、その間工事は中断され、石垣の完成は2ヶ月遅れることとなりました。

萩城の天守跡


この状況を知った毛利輝元は、この騒ぎを起こした責任は熊谷にあるとし、慶長10(1605)年8月軍を送って熊谷の屋敷を包囲し、息子と孫を人質に取りました。

そして翌日再び毛利方から派遣された人々が来て、熊谷に切腹を迫ったのでした。熊谷は自ら命を絶つことを拒否して斬首されました。

人質となっていた息子フランシスコ猪之助と熊谷の家族、訴訟に関与した者たち(すべてキリシタン)もそれぞれ自宅を襲われ殺害されました。

萩城跡の後ろにそびえる指月山


娘婿の天野も山口で処刑され、残されたのは、毛利元清の孫にも当たる熊谷の孫二郎三郎(のちの元貞)だけでした。

この殺戮がキリシタンの粛清のためであったことは、砂利を盗んだ益田方は誰も罰せられていないことからも明らかです。

表向きの理由とはいえ、訴訟に連座して殺されたという毛利家史料があるので、熊谷は殉教者かどうかが列福審査において議論されました。

萩城の石垣


しかしその事件の経緯と熊谷の態度を詳細に記録したセルケイラ司教の報告書により、命をもって主を証した殉教者であることが認められました。

2008年熊谷元直はペトロ岐部と187人殉教者としてローマ法王によって列福されました。

権力と武力でキリシタンを殲滅した毛利家の城は、今わずかな遺構と石垣のみの姿となって、多くの観光客たちに諸行無常を伝えています。


毛利輝元像

毛利輝元について

萩城跡の遺構

天守の遺構


 現地への行き方
萩バスセンターから循環バス「晋作くん」に乗って、「萩城跡・指月公園入口」下車、徒歩3分。



この地図は大体の位置を示すものです。訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

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