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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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天樹院

                             山口県キリシタン関連史跡

口実を作ってキリシタンの殺害命令を下した


毛利元就の長男隆元の子毛利輝元とその妻らの墓がある墓所。
元は寺院の墓域でしたが、廃寺となり、現在は墓所だけが残っています。

輝元は、萩城築城の際に発覚した砂利横領事件の責任を取らせるという口実で、キリシタン武士熊谷元直の屋敷を包囲して斬首。元直の娘婿でキリシタンである天野元信を山口で殺害し、(自分の甥である一人を除いて)2人の家族をことごとく殺しました。

また、山口のキリシタン盲人ダミアンを殺すよう命じました。輝元によって遣わされた役人は、ダミアンの首をはね、信徒達に拾われないよう遺体を寸断して川に捨てました。

天樹院の門


慶長3(1598)年9月豊臣秀吉が死去した時には、毛利家は徳川家康に次いで、日本で第二位の力を持っていました。

しかし関ヶ原の決戦で、輝元は西軍の総大将となることを重臣や一門に相談することなく受託。軍を率いて大坂城に留まるも、肝心の戦には出陣しませんでした。

西軍が負けると判断していた吉川広家が家康に交渉し、家名存続を訴えたため、戦後毛利家の改易は避けられましたが、輝元は隠居、所領は周防・長門の2カ国と、大減封されました。

輝元の墓


輝元は剃髪して幻庵宗瑞と称し、表向きは嫡男の毛利秀就に家督を譲りましたが、実質的には藩主の座についたままでした。

慶長8(1603)年には、輝元は江戸に出向き謝罪し、翌慶長9(1604)年、萩城を築城し、居城としました。

徳川政権が固まるにつれ、キリシタンへの圧力を強めるようになり、大減封された際にも離れていかなかった重臣熊谷元直を処刑しました。


天樹院の門

天樹院について

説明板

墓所

墓所

輝元とその妻の墓

輝元の墓

輝元の火葬場跡


 現地への行き方
萩バスセンターから循環バス「晋作くん」に乗って、「天樹院入口・萩夏みかん工房前」下車、徒歩3分。



この地図は大体の位置を示すものです。訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

インフォメーション


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