本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 史跡案内 > 山口 > 伊藤博文旧宅

伊藤博文旧宅

                              山口県キリスト教関連史跡

大日本帝国憲法の起草に携わった


17歳にして松下村塾に入り、倒幕運動に参加し、初代内閣総理大臣に就任した伊藤博文。
博文が家族と暮らした旧宅の隣には、明治40(1907)年に東京の大井村に博文が建てた別邸が移築され、公開されています。

日本で初めて信教の自由を保障した大日本帝国憲法。その起草には、海外に密航し、留学を果たした伊藤博文が大きく関わっていました。

伊藤博文旧宅


安政元(1854)年に博文の父林十蔵が、一家を上げて伊藤家に入家し、ここに居住することになりました。

ここに住むことによって、松下村塾で学ぶこととなり、木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞らと交わるようになった博文は、倒幕活動に身を投じます。

文久2(1862)年、久坂とともに公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、高杉らと品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ちしました。また山尾庸三とともに塙次郎・加藤甲次郎を暗殺しました。


伊藤博文旧宅

内部

伊藤博文像

年表

伊藤博文別邸


明治4(1871)年、博文は岩倉使節団に副使として参加。この使節団は不平等条約の改正を求めて送られたものでしたが、訪れた欧米各国で信教の自由に関して要望ないし抗議を受けました。

キリスト教弾圧の非を至る所で非難された博文が、日本政府にキリスト教禁令の撤廃を強く求めた手紙を書き、それが高札撤去につながったとする説があります。

しかしその手紙が日本に到着したのは、高札撤去の通達の後である可能性が高いことが、最近の研究で明らかにされています。

高札撤去の直接的な原因でないとしても、使節団が欧米で受けた抗議が、日本政府の宗教政策を大きく転換していくターニング・ポイントになったことは確かです。

伊藤博文像


岩倉使節団の中で、欧米の文物と制度の吸収に最も熱心だった博文は、明治14(1811年)、憲法制定や先進国の政治の調査のために再びヨーロッパへ渡りました。

そしてウィーンで憲法学者ローレンツ・フォン・シュタイン博士の講義を受け、帰国後、初代枢密院議長として大日本帝国憲法の起草・制定で中心的役割を果たしました。

明治22(1889)年に制定された大日本帝国憲法の第28条により、日本で初めて信教の自由が保障されることとなりました。


 現地への行き方
萩バスセンターから循環バス「松蔭先生」に乗って、「松陰神社前」下車、徒歩5分。
JR東萩駅からは徒歩20分ほどです。



この地図は大体の位置を示すものです。訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

インフォメーション
《本サイト内の関連ページ》
《本サイト以外のサイト》



                                          NEXT >>