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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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松下村塾

                              山口県浦上キリシタン関連史跡

吉田松陰の実兄と浦上キリシタン


松下村塾は、密航に失敗し蟄居を命じられた吉田松陰が、叔父玉木文之進が作った塾を継承し、実家を改装して開いた私塾。ここから尊皇攘夷倒幕の志士たちが巣立って行ったことから、明治維新胎動の地とも呼ばれています。

ここで学んだ人々の中に、松蔭の実兄杉民治もいました。松蔭が江戸の獄に送られた時に、民治はそれまで勤務していた郡奉行所を免職されましたが、その後萩藩に登用され、代官となりました。代官として担当した業務の一つが、流配されてきた浦上キリシタンを改宗させることでした。

松下村塾


今も多くの観光客を集める松下村塾。吉田松陰は、萩藩士杉百合之助の次男として生まれ、子供のいなかった叔父の養子となりました。

松蔭はペリーの黒船に乗って密航しようと企てましたが失敗し、蟄居を命じられました。実家で幽囚の身となった松蔭が、杉家の宅地内にあった小屋を改装して開いたのが松下村塾です。

父杉百合之助と長男杉民治は、この松下村塾に最初に入塾し、塾に多大な援助をしました。


松下村塾

松下村塾内部

説明板

塾生と門下生

松蔭幽囚の間


松下村塾のすぐそばにあるのが、松蔭幽囚の間のある旧宅。ここに民治は寛永6(1853)年から居住していました。

松蔭が江戸に送られた際に、百合之助と民治は免職を余儀なくされましたが、その後民治は再び萩藩に登用されるようになり、代官にまでなりました。

明治の世になり、浦上キリシタンの問題が持ち上がった時、萩藩は信徒を預かり改宗させる任務を受けることとなりました。

松蔭幽囚室


現在の萩市の代官となっていた民治は、浦上キリシタンが到着するに先立って、民がキリスト教に染められないようにと、絵踏みの実施や信徒が住む場所を竹柵で囲って分断することなどを提案し、藩の同意を得ました。

明治2(1869)年、民治は藩の民政に尽力した功績で、藩主から「民治(みんじ)」の名を賜り(それまでは梅太郎)、その後閉鎖されていた松下村塾を再興しました。

松下村塾で学んだ人々


松下村塾で学んだ人々は、尊王攘夷と倒幕の志士として活躍し、明治政府の中核をなすこととなりました。

松蔭自信は、外国の進んだ文物を学び、日本が諸国と肩を並べられるようになることを願っていましたが、志士たちの多くは攘夷思想を強く持っていたので、外国勢力に対抗心を燃やし、キリスト教の宣教師は外国の手先に違いないと考えていました。

そのため、木戸孝允(彼は塾生ではなかったが、松蔭の門下生だった)は浦上キリシタンを総流配して各地で改宗させることを決め、その実行にあたりました。

しかし木戸孝允に従って江戸に出た伊藤博文は当初攘夷派でしたが、松蔭のなし得なかった海外への密航を果たし、西洋の文物に触れて開国派に転じました。初代内閣総理大臣になってからは大日本帝国憲法の起草に携わり、この憲法の発布によって信教の自由が認められ、長らく続いたキリスト教弾圧にピリオドが打たれました。

松下村塾は、一般に明治維新の原動力として知られていますが、キリシタンとの関わりも深く、明治以降のキリスト教史を語る上で欠くことのできない存在ということができます。

最後のキリシタンともいうべき浦上キリシタンを担当した人物、その流配と改宗を進めた人物、海外に学び信教の自由を保障した憲法の制定に関わった人物、その三者が同じ師の下から出たことは、ただの偶然でしょうか。歴史の不思議さを目の当たりにする思いがする場所です。


 現地への行き方
萩バスセンターから循環バス「松蔭先生」に乗って、「松蔭神社前」下車すぐ。
JR東萩駅からは徒歩15分ほどです。



この地図は大体の位置を示すものです。訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

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