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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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功山寺

                             山口県キリシタン関連史跡

日本最初の教会の建立を許可した大名が眠る寺


日本最初の教会の建立を、ザビエルとともにやってきたトルレスに許可した大名、大内義長の墓がある寺院。

大内義長はキリシタン大名大友宗麟の弟にあたる人物です。功山寺の仏殿は国宝に指定されていますが、この仏殿で義長は自刃したと伝えられています。

功山寺


功山寺は山口県下関市長府にある古刹。中国地方を支配した毛利家の菩提寺です。

幕末に活躍した高杉晋作の像が建てられ、ここが明治維新発祥の地であるとした碑文が刻まれています。

どこが明治維新発祥の地であるかという点については異論もありそうですが、歴史的な場所であることは確かです。


功山寺山門

山門の説明板

功山寺仏殿

仏殿の説明板

毛利家墓所入口

毛利家墓所入口

高杉晋作像

像の台座の碑文

大内義長の墓


大内義長は元の名前を大友晴英といい、大友宗麟の弟として九州に生まれました。

母が大内家の出だった縁から、子供のいなかった山口の大名大内義隆の後継ぎとされましたが、その後義隆に男児が誕生し、約束を解消されます。

晴英は出家し、僧として暮らしていましたが、大内義隆の失政に叛意を募らせた重臣陶晴賢は、義隆を倒し、晴英を大名にするよう画策します。

陶晴賢から計画を持ちかけられた晴英は、たとえ傀儡であっても大名になるならば、人生に展望が開けると考え承諾。兄大友宗麟は反対し、引き止めましたが、大名になることに執心した晴英は言い聞き入れませんでした。

左から見た義長の墓


陶晴賢の謀反は成功し、大内義隆は大寧寺で自害。晴英は新当主として迎えられ、大内義長と改名しました。

しかし山口を虎視眈々と狙っていた中国の雄毛利元就は、弱体化した大内家に戦をしかけ、厳島合戦で陶晴賢を敗死させます。

陶晴賢亡き後、家臣への求心力を失った義長は、毛利軍に攻められ敗走。長福院(現在の功山寺)にて自刃に追い込まれました。

右から見た義長の墓


キリスト教との関係では、大内家は特筆すべき存在として歴史に名を残しています。

義長の前当主大内義隆は、ザビエルに領地内での布教を許可し、何度も城(御殿)に招いて話をしました。又ザビエルは日本の国王に贈る品々を義隆に献上しました。

そして大内義長は、ザビエルとともに来日し、ザビエルが去った後も山口に残って宣教に励んでいた司祭トルレスに、教会建立を許可する裁許状をしたためました。

墓から見た仏殿


毛利軍に囲まれて、兄大友宗麟からの援軍がないことを恨みながら自刃したという大内義長。当主であったのは、6年ほどの間でした。

草創期のキリスト教に接し、その良さを認めつつも、義長自身は洗礼を受けることはありませんでした。享年26歳。あまりに短い人生でした。

一方兄大友宗麟は、青年期にザビエルに接し、キリスト教を保護するも、家臣に反対されキリシタンにはなれず、老境に至る頃に洗礼を受けました。


境内地図

墓の説明板

墓の横の説明板

義長が飲んだ水

 
 現地への行き方
JR山陽線長府駅、又は下関駅からサンデン交通などのバスに乗り、バス停「城下町長府」で下車。そこから徒歩15分ほどです。



この地図は大体の位置を示すものです。訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

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